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ベテラン農家特集 「ベテラン生産者紹介その②」


御殿場線「下曽我駅」から県道72号線を松田方面方面に、中河原の梅林を横目にさらに進むと、上曽我地区に到着します。

 

上曽我のみかん農家 柏木一郎さんはみかん農家の大地主。昭和7年生まれの88歳という御歳ですが、現在も外が真っ暗になるまでバリバリと働いています。

 

お話を伺ったこの日は朝から雨。ちょうどみかんを収穫したばかりなので、午前中は選果をしていたよと、なんだかインタビューなんて恥ずかしいなあといいながら大広間に通して頂きました。

 

みかん農家の柏木一郎さん

一郎さんのご実家は大正の末から農業をしており、一郎さんのおじい様(祖父)が農業の勉強をしに行っていたアメリカから日本に戻り、ご実家の農業を継いで、みかんの栽培がスタートしました。高校卒業後に就農した一郎さんのお父様は厳格で、厳しくみかん、米、うめの栽培の基礎を教わったといいます。

 

最盛期のみかん農家の生活

既にみかん農家を営んでいた柏木家では「最盛期」としてどの年がピークであったかをはっきり認識してはいないと言いますが、みかんが大人気だった時代には「みかん屋」という職業が存在しており、みかん農家にバイクで来てみかんをあるだけ売って欲しいと頼みに来ました。農家の規模が大きければ大きいだけみかんを買うことができるため、競うように朝一番にやってきました。

高価であるみかんは、丁寧に貯蔵庫に保管していても小さなカビなどが発生します。商品にならないものは持ち帰ってご近所に配ったり、お子さんのおやつになりました。そのため、お子さんが大きくなってから「みかんはかびたものを食べるのが当たり前だと思ってた」と言われてしまうほど、ハネのものでも1つ1つが貴重で大切にされていました。

上曽我地域では昔はさほどみかん農家というのは多くなく、みかんの最盛期の前にみかん農家をしていたのは周辺では柏木家だけでしたが、みかん需要の増加とともにあっという間にあちこちにみかん農家が増えていき、貯蔵庫の中はどこもかしこもみかんで溢れているのが日常でした。

 

キウイの目あわせの様子
キウイの目あわせの様子

みかんの大暴落、そして

みかんの買い取り価格が下落していくと、このままみかん栽培だけでは赤字になってしまうと危機感を抱き、改植ではとても間に合わないと接木をしたり、みかんの木の間のスペースに晩柑類を植えていきました。

 

みかんを収穫しながらも徐々にネーブル、甘夏、キウイ、伊予柑など…さまざまな品種の耕作もスタートしました。特に伊予柑は作り始めた年は良いものがたくさん収穫できたため、これは良い!と耕作面積を1反まで増やしましたが、上曽我の気候が合わなかったのか2~3年であっという間に 枯れてしまいました。

 

その後、贔屓にしていた肥料屋さんから温室でのみかん栽培(ハウスみかん)の話を聞き、ハウス栽培の第一人者の先生と出会うことになります。

先生は、「現代の農業にはビニールというものが使えるようになりましたから、これを使わない手はない、これは革命です。」と話し、新たな可能性を感じました。

 

しかしちょうどその頃、農業の先輩であるお父様が体調不良の為、農業の第一線から退くこととなりました。

はじめはお父様のそばにいたいと仕事の規模も縮小し、ハウスみかんの栽培は頭の片隅に置いたままあきらめていましたが、3年ほど経過し、生活のペースも再び軌道に乗ったころで、いよいよ温室みかんの栽培をはじめる決心がつきました。おそらく、神奈川県内でははじめてハウス栽培を行なったのではないかと一郎さんは話します。

ハウスみかん栽培は先生の指導もあり大変順調でしたが、ハウス栽培では換気をしていないといけません。風などの影響によりビニールが破れ換気扇に絡まり動かなくなってしまうとハウス内の温度は上昇し続け、木が焼けてしまい、2度ほど全滅してしまいました。

 

毎日ハウスを見回る余裕があればよいですが、大規模な農場を持つ農家では、日の昇っているうちは農作業に追われ、ハウスの様子を毎日必ず見回るという余裕はありません。はじめてのハウス栽培ということで何かが起こったときに収穫が0にならぬように、露地栽培(屋外での栽培)のみかんの耕作面積を半分残しておき、全てをハウスみかんには切り替えなかったため、なんとか大赤字にはならなかったといいます。

 

キウイの山回り
キウイの山回りの様子 一郎さんの代から新たにキウイ栽培もはじめた

農薬を使わないということ

 

現在一郎さんはみかんに農薬を使っていません。昔は山にたくさんのみかん畑があったので組合をつくり、スプリンクラーを設置し、一斉に農薬をかけていた時期もありましたが、現在ではスプリンクラーの修理部品もなくなり、みかん農家も少なくなり、キウイ栽培に切り替えたり、耕作をせず葛や雑木に埋もれた畑が増え、ついには組合も解散しました。

 

「みかんは農薬を使わないと外観がきれいじゃないから外観について理解のあるジョイファーム小田原でさえ、選果したらほとんど返されちゃうよ」と笑って話します。

 

最近ではご年齢のこともあり交流活動には参加を控えていますが、過去に交流をした際に消費者に言われて心に残っている言葉があります。

 

「綺麗な無農薬みかんを出して欲しい」

 

この言葉には大きなショックを受けたといいます。「この人たちは見た目と安全とどちらをとるのだろうか、無農薬がどういうものなのかわからないのだろうか…」と。

 

「そんなのできるわけない」と言うと「じゃあ一郎さん、このきれいなみかんと汚いみかんどっちが食べたいと思う?」と聞かれて「そりゃあ…うん、きれいなほうがいいな」と答えるしかありませんでした。無農薬のみかんは慣行栽培(農薬を使用する栽培)とは違い、味は食べればおいしいけれど、視覚では綺麗な方がいいと思うからこそ、農薬を使わないとどんなものができるのかを伝えてきたといいます。

 

一郎さんとみかん畑
一郎さんとみかん畑 暑い時期に摘果され十分な大きさになってきていることが伺える

家族の大切さ

 

奥様のまち子さんとは一郎さんのお母様と生まれ故郷が近いことから出会いました。まち子さんは結婚をする時に一郎さんのお母様に農業をやらなくても良いと言われていましたが、農家の暮らしをみて「一緒に働かなければ」と思ったといいます。

 

最盛期には地方から人も沢山雇いました。千葉や山梨からたくさんの人が出稼ぎに訪れ、

 

現在でもみかん最盛期に収穫のお手伝いに来てくれた人と交流が続いています。

 

「千葉から10代のときに収穫のお手伝いにきてくれた農家さん。現在70歳くらいかな。長男がまだ赤ちゃんのときに来てね。おぶってあやしながらみかんを収穫してくれたんだよ。今でもよく電話をくれてね。」

 

一郎さんはご自身のように、いずれ息子さんにも農業を継いで欲しいと考えていましたが、勉強がよく出来て良い学校、良い企業に就職した息子さん。どんどんと出世をしていくその姿にいつの頃からか農業を継がなくとも側にいて欲しいという思いに変わりました。

 

息子が継がなくても、年齢的にきつい農業でも自分達夫婦のだけのためじゃなく、息子や家族のためならがんばれると思い、やってきました。

 

今年4月、息子さんが病に倒れ、亡くなってしまいました。

 

奥様と2人でとてもがっかりして、頑張れると思っていた農業に身が入らなくなってしまったと言います。

 

「そこの詩、読んでみてごらん」

 不意に一郎さんが指をさした先には詩がありました。

 

心の道

「心の道  子ども叱るな来た道じゃ 年寄り笑うな行く道じゃ 来た道 行く道 ひとり道 みんな来た道 行く道じゃ これから通る今日の道 いまやらねば いつできる わしがやらねば おれがやる」

 

この詩は一郎さんとまち子さんがお友達の所に出かけた際に出会って大変気に入った詩を紙に書きとどめ、親族である書家の岩田明倫氏に書きなおしてもらったものであり、読むともう一度やる気を出させてくれるといいます。

 

「若い人がいなくなってしまったし、今は農業を継がないから、山のみかん畑もこの先2~3農家が残ったらいいほうだと思う。うちも、この代で終わっちゃうと思うけど、動けるうちは農業を続けるよ。」と強い言葉で勇気をいただきました。